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御神輿には、伊文神社の御神体である「スサノオノミコト」が祀られています。「差し上げ」「差し回し」500kg近い御神輿が男衆によって天高く差し上げられます。天高く御神輿を差し上げる事により、神様の力を強めるとか、神様に対する最高のおもてなしをするという意味があります。2007年より長柄を付ける事により担ぎ手も30人体制となった事で始まった御神輿の見せ場です。 |
この御神輿は、神楽殿よりも古く、明和4年(1767年)に京都で作られました。徳川10代将軍家冶の時代です。現在の神輿は2代目で、最初の神輿は、白木で作られた神輿で天正19年(1591年)西尾城主田中吉政の時に作られました。天正19年というと千利休が切腹した年ですから、豊臣秀吉の時代です。 |
京都の祇園祭で、「でんでん」と呼ばれる縛り方を参考に長柄を縛ります。男縛りをしてからギューギューと締め上げていきます。 |
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「神楽殿」 文政二年(1819)に作られた「神楽殿」徳川11代将軍 徳川 家斉(とくがわ いえなり)の時代です。昔は、西尾城大手門前に作られ、神楽などを奉納する建物で御神輿が一晩鎮座する事から「お旅所」とも呼ばれています。2007年に伊文神社の義倉蔵から発見されました。 西尾まつりが台風直撃の為、中止となった2007年。暴風雨の中、神輿渡御は決行され約40年ぶりに御神輿が鎮座したというエピソードがあります。この神楽殿が建てられた事により大きく祭が変化しました。 |
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「梵天」(ぼんてん) 西尾城の城下において、祭りを執り仕切る天王町、肴町、須田町、本町、中町、横町(幸町)の表六ヶ町の看板です。御幣が付いていて同じようなモノにみえてしまいますが、すべて形が違っています。現在でも、この「梵天」は、各町内で大切に保管され、祇園祭400年の歴史の一部始終を見てきた町衆の想いが詰まった「宝物」なのです。 |
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西尾祇園祭は土日で開催する為7月15日にもっとも近い日程で例大祭が伊文神社にて執り行われます |
祇園祭当日(神輿渡御)には拝殿で発御の式が執り行われます |
拝殿前では天王町の獅子舞などが奉納されます。(昔はすべてのだし物がここで奉納されていました) |
幕に隠され伊文神社のご神体が神輿に移され、いよいよ出発です |
小さな鳥居を地面スレスレで約500kgの神輿が慎重にくぐり、約30名の担ぎ手によって御剱八幡宮に向かい渡御が始まります |
御剱八幡宮に到着し、参拝した後、町へ神輿は繰り出します (昔はここで一泊していました) |
町中では、御神輿の下をくぐる光景をいたるところで目にしますが御神輿の下をくぐると厄払いや夏病みしないと言われています |
神楽殿前の指し回しから神輿が神楽殿(お旅所)へ移されます ここは最大の見所です! |
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「肴町の大名行列」 肴町の大名行列は、正徳年間(1711〜1724)に始まったといわれています。江戸時代といえば、身分階層の厳しかった時代です。本来ならば、町人が大名にふんすることなど、とても許されませんでしたが、時の西尾城主 土井利意(在城期間1681〜1724)は、町人が武士の衣装と刀をつけることを許し、城内に入ることも許しました。 先頭の露払いは「下に〜下に」先箱は「エーホーヤットマカセーエーヨイヤサノサ」というかけ声をかけます。 大名行列で使われる道具は模造品でしたが、明治維新後、九州の某藩の道具を一式購入しました。
「天王町の神楽獅子」 天王町に伝わる「神楽獅子一札之事」によると、天王町には古くから「さんやれ獅子」があったが、正徳年中(1711〜1716)に熱田神宮の二太夫をはじめ、10数人の楽師を招いて神楽獅子の指導を受けたとされています。練り歩きの千秋楽に1回だけ見せる「泣き獅子」は必見です。(昔の御輿渡御の行列ではくじ引かずの先頭です)
「中町の大屋形」 大屋形は2階の踊り場を滑車で上下できるのが特徴で、西尾城内の御剱八幡宮へ参詣する際に城門を通過するためといわれています。かつては他に船屋形など2台あったと記録されています。大屋形には西尾キャンペーンレディが乗っています。
昔は、天王町、肴町、須田町、本町、中町、横町(幸町)の表六ヶ町が繰り出すねり物が神輿に随行していました。ねり物は、伊文神社で演技を奉納した後、お旅所まで行列して進み、ここでもそれぞれ舞い、翌日には御剱八幡宮へも奉納していたとされています。 |
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